Guten Tag! くろわしです(` フ ´)ノ
1740年11月6日は、フリードリヒ大王の友人であったカッテ少尉が処刑された日です。今回はその処刑の舞台となったキュストリン要塞をご紹介します。
(2013年8月の情報です。)
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キュストリン要塞があったキュストリンは、現在は国境沿いにあるポーランドの街です。ベルリン中央駅からは、2時間弱で行ける距離です。
☆切符を買うときには駅名に注意!☆
これは自分が実際にやってしまった失敗なのですが、券売機の駅名検索で到着地をドイツ語名であるKüstrinで検索してしまうと、一つ前の駅Küstrin-Kietzが出てきてしまうので、ポーランド語名のKostrzynで検索して切符を買ってください!
☆パスポートは必須☆
電車で行ける距離ではありますが、キュストリンはドイツの外です。電車の中で身分証明書を見せるように求められる場合もありますので、必ず携帯しましょう。(私のときは、ドイツ→ポーランドのときはありませんでしたが、ポーランド→ドイツのときはパスポートを見せるように言われました。)
☆お金はユーロでOK☆
キュストリンは国境沿いの街なのでユーロも使えます。
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Kostrzyn駅からキュストリン要塞までは、歩いて30分ほどの距離にあります。要塞に着くと、看板が!
中はだいぶ広いです。雑誌で見た、キュストリン要塞でのカッテ少尉の処刑の様子について書かれた看板を探していたのですが、見つけるのにだいぶ時間がかかりました……(´ω`;)
そして、その看板がこれです!
ポーランド語とドイツ語で書かれています。
和訳するとこんな感じ。
皇太子フリードリヒは、城の窓から友へフランス語で大声で呼びかけたという。「カッテ!私を許してくれるか?」それに対して、罪人カッテは答えたという。「私は、何度でも私の皇太子のために死ぬことを、幸福に思うでしょう。」それからカッテは自身を死刑執行人に委ねた,「イエス様…」という言葉と共に。そうして、ここキュストリンで行われた悲劇は起こった。
どこでカッテは処刑されたのか。
1970年11月6日に執行人コブレンツは聖ヨハネ騎士団の騎士であるハンス・ヘルマン・フォン・カッテを斬首した。
皇太子フリードリヒ(後のフリードリヒ大王)は、自分の父の暴虐さにもはや耐えられなかった。フリードリヒはそれ故イングランドへの逃亡を計画し、その際にフリードリヒを、フリードリヒの誠実な友人でありエリート王立近衛兵の将校であったハンス・ヘルマン・フォン・カッテ少尉は助けようとしたのである。皇太子フリードリヒが逃亡計画の詳細を書き記した手紙は、偶然都合の悪い人物の手に渡ってしまった。
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルムI世は、その共謀者カッテについて冷酷な判決を下した。歳若いフリードリヒは捕らえられた。フォン・カッテは自ら全ての責任を引き受け、そのため他の者が関与するのを救った。カッテは死刑を言い渡された。人生の最後の夜に、カッテはベルリン門の上の家で過ごした。カッテは手紙を何通か愛する人へ宛てて書いた。11月6日の7時45分にカッテは斬首された。父にカッテの判決執行を見ているように強いられたフリードリヒは,失神したという。フリードリヒがカッテの処刑を見ていたその部屋を、後に人はフリードリヒの部屋と呼んだ。皇太子フリードリヒのキュストリン要塞での軟禁は1732年まで続いた。
その悲劇は忘れられることはなかった。キュストリン市民たちはその若い少尉カッテを偲んで,市民たちは1929年にフィリップ稜堡とブランデンブルク稜堡の間の部分を「カッテの堤防」と名づけた。今日、そこには霧の立ち込めた朝になると時々斬首されたカッテの霊が現れるという。カッテの悲劇は多くの映画やドラマのテーマになった。カッテの悲劇を、マルク・ブランデンブルクの作家であり年代記編者であるテオドール・フォンターネも書いた。この献身・友情・若者の反逆の話は永遠に人々の記憶の中に残されるだろう。
現在残っているのは、基盤の部分のみ。
ポーランド語の看板。
建物の中で資料を読むこともできます♪
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いかがでしたか?ベルリンから日帰りで行ける距離ですし、カッテの幽霊を見たい方はぜひ行ってみてはいかがでしょうか?
(` フ ´)ノシ <Bis dann, viel Spaß!)